花の金曜日や年末の納会などの飲み会の席で、
「若手は上司の話を聞くのがわが社の伝統だ」
「乾杯の一杯はビールに決まっているだろう」など
あなたの周りには、「当たり前」や「伝統」という言葉があふれていませんか?
上司からのありがた~いお話や、自分の生まれる前からの習慣を強制されることに辟易している人も多いでしょう。
そんな時あなたは考えたことはありませんか?
なぜ「当たり前」や「伝統」という言葉があるんだろう、意味なんてないだろうっと・・・
日本に限らず、世界中に伝統はあふれかえっています。 最近でいうと、甲子園で試合に負けたチームが甲子園の土を持って帰るというのも伝統と言われていますね。
元をたどれば意味が会ったのでしょう。
人の心を動かす「何か」があったのでしょう。
しかし、その当時意味や感動があったことも時代が変われば人も変わります。意味も思いも変わってくるでしょう。
それを未来に、子供たちに受け継いでいくことに意味や価値はあるのでしょうか?
ということで、こんにちわ!豪です。
今回は「伝統」というテーマで私の考えをお話していきたいと思います。
一個人の考えなので、人によって賛否両論あると思いますが「こういう意見もあるんだ~」というぐらいに考えてご覧になっていただけた幸いです。
「伝統」と「当たり前」の意味と使い方
皆さんは「伝統」という文字を見たとき、どういうイメージを思い浮かべますか?
冒頭でいったように、甲子園の土を持って帰るのも伝統でしょうし、あなたの地元で開催されるお祭りもある種の伝統でしょう。
国語辞典などに乗っている「伝統」の意味としては、下記のようになっています。
文字どおりの意味では、歴史的に伝承された物質文化、思考や行為の様式、人やできごとなどについてのイメージ、さまざまな象徴群などを意味する。
引用元:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
まぁ、文字通りの意味を見てもよくわからない方もいると思います。
簡単に言えば、
様式や芸術などの考え方。
技術や習慣などの規範。
などの過去から現在まで受け継がれてきたものが当てはまります。
一方、「当たり前」という言葉を見たときにどう思いますか? 「困っている人を助けるのは当たり前だ」などと、肯定的なイメージがあると思います。
実際、「当たり前」の意味としては、下記となっています。
だれが考えてもそうであるべきだと思うこと。当然なこと。また、そのさま。
引用元:大辞林 第三版
「伝統」と「当たり前」の問題点
どちらの言葉も、言葉だけを見ると良いイメージの言葉のように感じます。
しかし、実際に使割れるシーンに出会うとそうは思わないことでしょう。
その原因としては、昔から代々続いてきたことを変えることを嫌う・周囲と違うことをする人を排斥しようとする日本人の気質に問題があるのではないでしょうか?
学校教育を例にして見るとその問題点が多く見られます。
- 個性を伸ばすのではなく、平均化させる授業。
- 自身の経験を相手にも押し付けようとする、体育会系の考え方。
- 個人よりも集団を重んじる、考え方。
「木を見て森を見ず」という言葉もありますが、実際はこの言葉の反対で、全体の動きばかりを意識しすぎて一人一人の個性をつぶしていると、少なからず感じたことがあるのではないでしょうか?
また、個人の考えを重んじ新しいことに挑戦する現代には、慣例や慣行は不向きなのかもしれません。
「伝統」と「当たり前」の美点
前述で、問題点を述べましたが、良い点ももちろんあります。
伝統という言葉は、過去の人々が良いと考えてきたものが現在まで伝えられたもので、その中には現代の日本を支える技術(伝統工芸)や思考(思いやり・おもてなし)が多く含まれます。
こういった伝統が、現代の「当たり前」という考えを形成したのでしょう。 実際海外の方は、日本人はクールだ、マナーがいい、親切だ、などとよく評価してくれていますね。
まとめ
どちらの言葉も使い方次第で、良くも悪くもなります。
私は、悪い方の考え方・使い方をよく見聞きするせいか、どちらの言葉にも嫌悪感が出てしまいます。伝統・当たり前どちらも、思考を停止して過去の良い点を再現しようとする言葉のようにとらえてしまいます。
伝統を重んじるのも、当たり前と思って行動するのもよいですが、その前に考えてみてはどうでしょうか?
その考えは現代に当てはまるのか否か、自分たちの子供に同じことをさせるのかその先へ行かせるのか。
過去は無くてはならないものです。しかし過ぎてしまったものを取り戻したり改変したりすることはできません。過去に縋りつくよりも未来を見据え、今を大切にしてみませんか?